天童の将棋駒産業が天童織田藩によって推奨されるようになったのは、江戸時代のことです。将棋駒つくりは下級藩士の内職として始めたといわれています。天童織田藩の窮乏した財政の中、下級藩士は生活の窮迫にあえぎ、内職によって家計を補いました。将棋駒製作がその一つです。当時、織田藩の重臣にあり、のちに勤王の志士として知られた吉田大八が、その受ける扶持だけでは生活できなかった藩士に将棋駒の製作を奨励したと言われています。武士が手内職を営むことについては、他の執政の反対もありました。しかし、吉田大八は、将棋は兵法戦術にも通じるとの考えから、これを遊ぶことも、また駒を製作することも武士の面目を傷つけるものではないとして、その製造法を広く紹介したとされています。現在、その歴史は脈々と受け継がれ、将棋駒といえば天童、天童といえば将棋駒と皆様に愛されるようになりました。