初代藩主溝口秀勝(みぞくちひでかつ)が新発田入封の際、到着地であった五十公野の地に仮住居をかまえて、築城と領内経営の構想を練ったのが五十公野御茶屋の始まりと伝えられています。その後、3代藩主宣直(のぶなお)がこの地に別邸をかまえ、4代藩主重雄(しげかつ)のときに、幕府の茶道方で遠州流の茶人縣宗知(あがたそうち)を招いて庭を造り、別邸を茶寮としました。歴代藩主は江戸への参勤交代の行き帰りにここで休息し、旅装を整えたり、ふだんは重臣にも開放し茶会を催したりしていました。御茶屋は洗練された数寄屋造りの建物で、全般に木柄が細く簡素繊細な作りです。夏座敷2部屋は思い切って解放的に造られ、庭園を十分に鑑賞できるようにつくられています。庭園内の樹木は諸国の名所の種苗を取り寄せて植えたものといわれ、「心」の字をかたどったといわれる池を配し、なかに美しい赤松を植えた島を浮かべ、周りに築山をめぐらした池泉廻遊式庭園です。「同じ幕府の茶道方の縣宗知の指南の下に造られながら、それぞれ異なった趣の庭園が良好に保存されている越後を代表する大名庭園」として評価を受け、平成15年8月27日付けで「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園及び五十公野茶屋庭園」として国指定名勝となりました。