弘智法印宥貞は、1591年(天正19年)出雲の国松江に生まれ、1614年(慶長19年)23歳にして讃岐国衆山松尾寺の宥昌和尚のもとで出家し、宥貞の名をもらい仏門修行の身となりました。師匠が亡くなると修行の地を求め、一人諸国行脚へと旅立ちます。出羽三山や北陸を巡り、高野山では、金剛三昧院で真言密教を修学し小僧都の位を得ています。その後再び修練の地を求め、最後の信仰の地となった小貫東永山観音寺の住職となり、1683年(天和3年)宥貞92歳の時、当時流行していた伝染病から人々を守ろうと、村人に薬師如来の十二大願を説いたあと、決意し石棺に入定し即身仏になったと伝えられています。
現在は福島県石川郡浅川町の貫秀寺に安置されています。2011年(平成23年)の東日本大震災で貫秀寺も被災し即身仏の安置所も大破してしまいましたが、貫秀寺の住職、小貫即身仏保存会を中心とした浅川町民と町役場の努力により安置所は薬師堂として修復されました。