下北半島のみそ貝(カ)焼(ヤ)きの始まりは定かではないが、江戸時代に陸奥湾の漁師が、ホタテ貝を鍋代わりとして、出汁に魚の切り身などを入れ、自家製の味噌を溶き、稗飯、粟飯と一緒に食べていた素朴なものであったと伝えられている。
後に、鶏の卵が手に入りやすくなったことで、いつしか今のような卵を溶いて食べるみそ貝焼きになったと考えられる。卵入りのみそ貝焼きと白米は、特に病人やサント(産婦)に栄養をつけるために食べさせたという。
元禄時代延宝2年(1674年、将軍家綱の頃)に刊行された『江戸料理集』の焼物之部に、「集め貝焼」「玉子貝焼」「腸(わた)貝焼」「味噌貝焼」の4種類が掲載されている。この中の「玉子貝焼」は具を煮て卵を流し入れる。「味噌貝焼」は味噌を出汁で溶きその汁で具を煮たものである。むつ下北のみそ貝焼きは、この二つを合わせたものである。その後、このような「味噌貝焼」という名称は、料理書に見かけなくなる。単に「貝焼」と記されるものが多くなる。※内容は令和4年7月11日現在のものです。